靴に寄せて

身に着ける物として、生産物として、靴に興味を持ってしまって、それを追求する道を選んでしまいました。靴に対して思うところ、気付くところも多く、疑問を持つたびに自分なりの解釈をして、納得して靴を作っています。そんな雑惑を書きとめておきます。


靴の思い出

昔、私がもうちょっと若かった頃のお話。

なぜか縁あって、国際学会なんてものに出席したことがあります。いろんな国の方々が集まってました。先進国からも途上国からも、その間からも。ナントカシンポジウムとか、ホニャララセッションとか、いろいろな集まりで難しいことを討論してました。時効なので白状すると、そんなところにいると眠くなるばかりなので、さっさと会場を抜け出して、街中を観光したり、ふらふらとマーケットで買い物したり、本屋で立ち読みして回ったり、海外旅行を地味に満喫してました。いい思い出です(いいのか?)。

ちょっと巻き戻して、その現地に着いた時のことです。空港には同世代の人が迎えに来てくれて、車中でいかにも若者っぽい話をして盛り上がって(もちろん学問の話は皆無)いると、間もなく学会会場に到着。じゃまたね、ということで、指導教官に挨拶に向かいました。一気に気が重くなりましたが、こればっかりは仕方ない。

で、続々と各国のプロフェッサーだのコプロだのとご挨拶、と。そこでお会いしたフランスの教授先生のことです。彼の国の方は本当に足元を見るんですね。靴を見て人柄を探る。そういうことは知識としては知っていましたが、実際に目の当たりにすると結構気持ちが悪いものです。で、ときどき表情が曇るんです。本気で嫌悪を顔に表す。怖かったです。その先生の足元は茶色のタッセルローファー。カジュアルなんですね。これは、彼が研究室にいるときそのままの格好なんだと思います。学会は仕事の延長、そういう姿勢が靴によく出てました。

ついつい見渡して、目に着いてしまったのがアメリカの教授先生。白いシャツ、紺のスーツ、で足元はバーガンディレッドのウィングチップ! こういうのをドレスダウンって言うんでしょう。その靴には新品感はなくなっていましたが、大事に手入れしている感じがありました。それはもう好印象です。先生の立ち姿ともよく合っていて、会期中、ついつい目が追いかけていました。

学会にもドレスコード、身嗜みがあるし、それは仕事の延長としてカジュアルな装いなんだ、と。そういうことを実感する良い機会となりました。もちろん、その後、靴作るようになるなんて思ってもいませんでしたが・・・


ついつい

今はどうなんでしょう。私がもう少し若かった頃、自分の生まれ育った場所から移動したがらない地域性が一番高いのは大阪の人だと聞いたことがあります。その例に漏れず、私も関西に固執していたのですが、縁あって東京に住むことになりました。まずあちらで最初に驚いたのは、電車網の発達ぶりです。鉄道各社入り乱れて、ちょっと歩けば駅がある。選ぶほどある。関西では考えられません。しばらく過ごすと、自分の使う駅や路線が決まってきますし、乗り継ぎ駅を覚えたりすると、結構どこにでも楽に行けるようになります。そういうわけで、どこに行くにも電車。通勤も電車、買い物も電車、遊びに行くのも電車、そういうことになります。

で、電車というのは見知らぬ人の集まりなので、勝手な真似はできないし、おとなしく暇つぶしをしなくてはいけない。周りを見渡すと、みなさん上手に時間を使っています。本や新聞を読んでみたり、仮眠してみたり、メールを打ってみたり。報道で食事や化粧なんてのも指摘されたりしていましたが、実際によく見かけました。私自身は、高校生の頃の本ずくめ(テスト勉強含む)の電車通学ですっかり目を悪くしてしまった経験もあり、もっぱら頭の中でイジイジと物事を考える時間にしていました。往路はその日の予定を組み立てる、復路はその日の反省と次の日の仮予定を組む、そんな感じです。でも、私も人間なので、そんな殊勝なことばかりはできません。ついつい周りが気になって、ついつい人を見回してしまう。あんまりジロジロ見ると変な人ですから、もっぱら足元、ね。どうしても靴を見てしまう。それはもう、いろいろ見えてしまって、頭の中フル回転を始めるわけです。

いつかのこと、成人式の頃だったと覚えています。ドア際に立つ若い女性は振袖姿でした。着付けなんかはなかなかできる人が少ないですし、きっとプロの仕事でしょう。上から下まで一揃いしっかり決まっていい雰囲気です。うん、かわいい。で、隣の男性は着慣れぬスーツ。初々しい。これはこれでいい感じ。で、足元は、踵を履きつぶした黒のローファー・・・ サイズは合ってないし、磨いてもいないし、「高校生の時から履いてます!」てなもんです。何だか楽しく話している様子ですが、何だか少し痛々しい。見て見ぬふりをするのが心苦しかったぐらい、状況に不釣合いなアイテムが1つ。

通勤時間帯、日経新聞を持った紺のスーツに黒の革靴が、またぞろ電車にひしめき合います。ほとんどが、あ~あ、な靴です。それは関西でも東京でも一緒。それでもときどき、!なことがあります。生産国やメーカーまで分かるような良い靴を、満員電車でも平気で履くような御仁はいらっしゃるわけです。しかも、きちんとケアしてあって、特に目についてしまう。新品も良いのですが、かなり履き込んでいる風情なのに革が生き生きしている、なんて靴を見せられると、もう目が釘付けです。こういう「物を大事にする」姿勢がよく表れてしまうアイテムが靴だと実感します。

靴の学校に通っていた頃、地下鉄を降りて階段を上っていると、目の前に現れた黒のブーツにもうドッキリ! とんでもなく良い革で、とんでもなく良い作り、きちんと磨いてあって、一分の隙も見えない。浅草は靴の街だからと思いつつも、朝一番からえらいものを見せられ、目が覚めます。長い階段を上る間、ずっと背後でストーカー状態。靴に惚れ惚れしながら視線を上に移動させると、はたして学校の先生でした。いつもより遅い電車に乗ったらしい(寝坊だ!)。ともあれ、足元を見る人があれば、足元を見られることに気を配る人もある。昔ほどそういう配慮が行き届かなくなっているからこそ、靴が加点要素として大きいのかもしれない、そんな風に思うのです。


手製靴がそんなに良いのか?

どんな物でも「手作り」と言われると、なんだか素敵な物のような気がします。作り手の思い入れの詰まった、機械ではできない何かを期待する気持ちがわいてきます。そのような人の温かみを求めてしまう感情の一方で、ある工業分野においては、人間の感覚の方が機械よりも精度が高い場合もあるそうです。そういう話を聞くと、道を極めた職人は本当にすごいと思います。「人の手は素晴らしい」そんな潜在意識がどこかに刷り込まれているのかもしれません。

靴においてはどうでしょう。残念ながら、精度と生産性においては、機械製のほうが勝ります。外観と価格では、手製は機械に敵わない、そう思っています。しかし、機能においてはハンドソーン・ウェルテッド製法による手製靴に軍配が上がります。まあ、外観に関しては、手製ならではの雰囲気もにじみ出てしまいますから、精度だけが第一義ではないと思います。そもそも、外観の好き嫌いは主観ですから、評価基準としては弱いのですが。ともあれ、靴に求められる要素が単一ではない以上、いずれにも一長一短があって当然です。

靴に求められる要素、手製の場合は「履き心地」でしょう。ビスポーク靴のように一品物を誂えるには適した製法ですし、既製品でもその特長の恩恵は享受できます。対極にあるのは・・・ブランドですかね。ステイタス性だって重要です。例えば、同じ値段の靴でも、ブランドに「おっ」と言う人もいれば、手製に「グッ」とくる人もあるでしょう。その間には、そこそこのブランド性とそこそこの作りを持ち合わせた商品だってあるでしょう。ひとつの物を手に入れるにしたって、求める要素によって選択肢はいっぱいあるはずです。だから、良い悪いの二元論で考えるのはつまらないことだと思います。ただ、「激安にしか価値がない」とか、「高い物は良いものだ」とか、お金にしか基準がないとしたら、それはもっとつまらないことだ、といつも思います。


受注生産の自由

手製靴の場合製作に手間がかかることから、既製木型であっても木型を削った誂え靴にしても、受注生産が基本になります。既製品であったとしても、在庫を持つことは本当に難しい。例えば、紳士靴の既製品で24センチから27センチまでの展開で、幅を2種類用意したとして、最低でも1デザインにつき14足を用意することになります。手持ちのデザインが10種類あれば、常時140足を揃えておく、と。しかも、それがすべて売れる保証はどこにもない。おおよそ現実的ではありません。なので、どうしても、お客様には時間をいただくようお願いせざるを得ません。

その一方で、受注ならではの面白みもあります。どのようなデザインをどのような素材で誂えるか、靴底の仕様・雰囲気まで、いろいろと注文ができるということです。作り手が提案できるデザインの幅も、非常に大きくなります。手製靴の工房は規模が小さい場合が多く、そのような工房だと、注文を受ける人と製作する人の距離が近い、あるいは同じということもしばしばです。注文に応じて、どんなことができて、どんなことができないか、即答できます。作り手と使い手が話し合って製品を完成させるから、ビスポーク(Be Spokenに由来)です。受注生産は自由度がとても高い。

ただ、自由という概念は非常に難しい。どのような場面で履く靴なのか、仕事履きを求められたにしても、その人の職種によって使えるデザインや革の適正があります。そのような、使う人にしか判断できないことが多々あります。センスが問われるというよりも、勉強が必要ということかもしれません。勉強すればするだけ、その人の好みに合った、その人らしい靴を仕上げます。出来上がった靴を手にしたときの表情が明るいならば、作り手冥利につきます。自由の中から互いの満足が生まれる、それが受注生産ならではの魅力です。


合う靴がない

靴を作っている、と話すと、必ず返ってくる言葉が「合う靴がない」です。合う靴、ないですね。既製靴でぴったり満足できる靴にめぐり合うことは、まずありえないことです。まず、個々人の足には個性がある。足全体が履き心地に関係するわけですから、単純な長さと幅とかいうレベルではないです。左右でも足の形って違いますし。一方、靴側でも、より多くの足が履けるように、メーカーは木型を設計しています。より良い履き心地を目指して“攻めた”木型を作れば、履けない(買わない)人が多くなります。そこで、木型をきめ細かく揃えると・・・お値段が、ね。「合う靴」を提供するのは本当にいろいろ難しいことなのです。販売も苦労しているんでしょうね。「革は伸びるからきつめでいいですよ」、「靴はゆったりしている方が楽ですよ」って、どっちやねん! ま、ぴったり合っているのがベストですが、「だいたい合う靴」にめぐり合えれば既製靴としては十分に満足すべきでしょう。

そこで、「だいたい合う靴」の基準として、日本では足の長さと幅で靴のサイズを表記しています。25.0Eとか、26.0EEEとかのあれです。数字は長さ、センチです。足の長さで表記するのは日本独自の方法で、購入者や販売者が製品を理解しやすい表記になっています。欠点もないわけではありませんが、分かりやすいことは、いろいろ便利なことが多い。何といっても覚えやすい。幅はきちんと規格があって、メーカーごとの勝手な表記ではありません。だから、違うメーカーの靴でも、長さと幅の表記が同じならば、長さと幅についてはほぼ同等、これは靴選びがしやすい。靴選び、と記したのは、履き心地に寄与するのは、長さと幅だけではないからです。あとは試着を重ねる、経験で「よりよく合う靴」を体感していくしかない。最近はシューフィッターという職能も認知度を高めてきたようですし、そういう人のいるお店で話をしてみるのも経験値が高まるでしょう。それが面倒? ならば、いっそビスポーク? 木型から作りましょうか? これならば製作者がその足に合わせて靴を仕立てますから、別次元の履き心地が得られるでしょう。もちろん、手間(価格)も別次元ですが・・・ とにかく、いずれにしても「合う靴」を求めていくと、投資が必要になるということです。足を痛めない、疲れない、程度の既製靴にめぐり合えたとしたら、それは十分に「合っている」と思ったほうが良さそうです。

さて、ここで問題です。あなたは自分の足の長さを知っていますか? 脚ではなく、靴を履く部分の足の長さ。靴選びの基準その1は足長ですよ。シャツならば胸囲とゆき、パンツならばウェストが必要でしょ? 足長、測ったことがありますか? シャツやパンツは合っていなくても身体に支障を来たさないけれど、合わない靴は足を攻撃することがあります。言葉が過ぎましたが、「合う靴がない」とお嘆きの方に聞き返すと、知らない人がとても多いです。実際に測ってみると、履いている靴のサイズが全然合ってないこともしばしばです。靴選びの最大の難しさは、自分自身を知らないこと、にあると思います。だから、靴屋さんに行ったときに、一度足長を測ってもらうことをお勧めしています。


合う靴がない その2

靴は、足を簡略化したモデル、木型を基にして製作されます。裏返せば、足は木型と同様に靴に納まっていなければ、「合う・合わない」の話はできないということです。どういうこと? 靴には正しい履き方がある、そういうことです。これも、靴について誰も教えてくれない問題点の一つです。

靴を履くとき、まず、全部でなくてもいいので、靴紐を緩めます。靴べらを使って、靴に踵を滑り込ませます。靴紐を緩めなくても履ける? 合ってません! 靴べらを使わなくても履ける? 合ってないか、靴の踵部分が壊れます! 面倒? ならば、合わない靴を履き続けるということです。靴を頻繁に壊すことになります。場合によっては足を痛めます。

話が乱暴になってきたので、次。足を靴の踵部分に納めます。靴のヒールを軽く地面に押し付ければ入ります。靴は踵で履くものです。これ重要。木型は踵を基点に設計しているからです。

で、紐をキュッと締めます。ギューッと締めると足の裏の腱が突っ張って痛いことがありますから、そこまで強くはないけれども、そこそこ強く締めます。靴紐を締めることで、甲が上から押さえられるだけでなく、踵方向にも力がかかることになります。踵の位置が決まる。中学校の理科の分力の矢印を思い出すとイメージしやすい。

この状態が、靴が履けている状態です。このときに、幅が合っていることはもちろんのこと、甲から踵までの密着度が高いほど「合っている」感覚が得られます。つまり、「合っている」は足が靴の中で動き回らない感覚です。さらに、全体の密着度が均質であるほど、フィット感は高い、と。もっとも、そのレベルの履き心地を求めるならば、木型から作らないと不可能ですが。


靴に求められるもの

いつも思うのですが、何につけ「たかが」と「されど」の狭間で心惑わされるものです。私などは頭でっかちの見本みたいな人間なので、つまらないことが気になって気になって夜も眠れないなんてのはしばしばです。で、靴ですね。靴のことが気になってとうとう職人になってしまったわけで、靴に対して生涯研鑽を重ねる運命を背負ってしまいました。靴というのは、気になりだすと奥が深い。「たかが」と「されど」の間が大きい。しかも「されど」を実感しやすい。何につけ同じなのでしょうが、特にそれを靴に思い込んでしまったのが運の尽き。引き返せないところまで来ちゃったな、と。

靴とは何か。中に足を入れて歩くための道具です。私が作っているのはいわゆる革靴に限られますから、登山や運動などのためではなく、街を歩くため限定の靴です。靴を履いて歩くのに不具合があってはいけない、できることならば、所有する上で何らかの付加価値を得たい、そういうことだと思います。ああ、そんなこと気にしないで、たかが靴と割り切ればいいのに。

靴ね。足を入れるのだから、まず履き心地です。足に合っているかどうか。で、道具として耐久性やメンテナンス性など。身に着けるものとして、デザイン性とか文化的側面も含まれます。革靴は西洋文化の名残が色濃く残っているアイテムですから、「お約束」の要素がまだある。フォーマルにはコレとか、ドレスダウンにこんな感じとか、そういう雰囲気はあって、見る人の印象を左右することがあります。また、ブランド性も大事です。靴を履く人はいろいろな要素の中からそれぞれの考えで靴を選ぶことでしょう。私は、それらの要素を自分なりに解釈して靴を作る、作り続ける。されど靴と割り切って。


靴職人の靴

手製靴の学校に在籍中のこと。先生のほとんどは学校の卒業生にして実際に靴を作っている現役の職人でした。年回りが近いこともあって、靴を作ることに関して疑問があると、分かる範囲で隠すことなく答えてくれましたし、分からないことならば一緒に考えてくれる、そういう雰囲気でした。良き先輩です。で、新入生がその先輩方に最初に尋ねるのが、「これ、自分で作った靴ですか?」でした。先輩の足元に何人もしゃがみ込んで、いい迷惑です。自作の革靴を履いていましたね。で、授業の合間に隙を見つけて、靴にクリームを軽くかけたりして。そういうのにちょっと憧れを抱きながら、練習を兼ねて、課題の靴以外にも自分用の靴を作ったりしたものです。で、履くようになる。その頃には先輩の靴は、さらに履き込まれて手入れをされて、凄みを増していました。新品にはない、実用ならではの凄み・・・

卒業してずいぶん経ちました。学生の頃に作った靴を今でも履いています。手入れもそこそこに、トップリフトの張り替えや本底交換などもして、強烈な雰囲気を醸しています。未熟さが見えてしまうところもあるし、もともとそれほど良い材料でもないですし、表革の傷みも目立ってきましたし、引退させたい気持ちもあるのですが、どうにも捨てられない。愛着だけでなく、別の履き込んだという魅力があるからです。

今でも、同級生に会って話すことがあります。すると、当時作った靴をまだ履いていたりします。その靴も良い時間を過ごした雰囲気を持っています。互いの靴を見ると、当時のことを思い出すとともに、多くを語らなくとも互いの今が分かる気がします。